雛人形の歴史

雛人形の歴史

ひな人形の歴史を遡ることで昔の人たちの知恵と祈りの形が
よくわかります。

形代(かたしろ)

「形代」(かたしろ)は人の身代わりとされました。
三月の上巳の節句に、この形代で体を撫でて、けがれや禍いを人形(ひとがた)に移し
川や海に流して子どもの健やかな成長を祈りました。

「形代」(かたしろ)は、古代からのものです。
縄文時代の土偶、弥生年間の人面土器、古墳時代の埴輪などからも推測することが出来ます。
古代では祓以外にも、呪術的な要素も強かったのではないかと言われています。

流してしまうのですから、素材も簡素なものでした。

現代の「形代」(かたしろ)

全国の神社で「大祓」と呼ばれる行事があります。
罪や過ち、心身のけがれを祓い清めるための行事です。

「古事記」や「延喜式」にも記されており、古くから行われていたことが解ります。
 6月は「夏越しの大祓」12月は「年越しの大祓」と呼ばれています。

「大祓」(おはらえ)では「撫で物」(なでもの)とも呼ばれる紙でできた「形代」(かたしろ)に、
名前や年齢を書き、身体をなでて息を吹きかけ自分の罪やけがれを移し海や川に流したり
神社に奉納したりするのです。

「形代」(かたしろ)としての人形

「流し雛」などはその名残と言われています。 
京都でも下鴨神社などで編んだ藁に載せた雛人形「さんだわら」を
境内に流れる御手洗川に流し子どもたちの無病息災を願う神事が行われます。

天児(あまがつ)

天児(あまがつ)は幼児の枕元に置いて
子どもの病気や災厄をはらい、無事な成長を祈るものでした。

30センチくらいの二本の竹の棒を束ねて人形の両手として、
さらにTの字形になるように別の竹を横に組合わせます。
その上に白い絹の布で作った丸い頭を取り付けます。
それに簡単な衣裳を着せて魔除けのお守りとしたのです。   

赤ちゃんの産着などを着せて、
形代(かたしろ)の役目も果たしたようです。

這子(ほうこ)

這子(ほうこ)は、上巳の節句に贈られた人形で、
子どもの枕元におかれ神聖なものとして
3歳になるまでお守りとして持たせるなどの風習も生まれました。

幼児のおもちゃとしても愛用されていたと思われます。
ぬいぐるみの原型とも言われるように、白絹に綿を詰めてつくりました。
這うようなデザインから這子(ほうこ)の名称がついたのでしょうか?

這子(ほうこ)は現在にも伝えられています。
飛騨高山の「猿ぼぼ」は赤い布に綿をつめ、
丸い頭をつけたもので目鼻は描かれていません。
子どもの災厄を祓う這子(ほうこ)が次第に変化して郷土玩具となりました。

立雛

天児(あまがつ)を男雛
這子(ほうこ)を女雛として一対としたものが、
立雛の原型とも言われています。

ひひな

天児(あまがつ)や這子(ほうこ)から派生した「ひいな遊び」のお人形というものがありました。
「源氏物語」に貴族の女の子が「ひいな遊び」をしている風景が登場しています。
「枕草子」にも描かれています。

「ひひな」は童女の遊び道具として存在していました。
「ひとがた」と「ひひな」が結びついて、現在の「お雛さま」が生まれました。

これらの人形は、中世以降になると次第に立派なものとなります。
人形(ひとがた)も「雛人形」として造られるようになり、
江戸時代になると平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となってゆきました。

雛遊びが雛祭りへと変化してゆくのは、
江戸幕府が3月3日の節日を「五節句」の一つに定めたことと重なります。
時代が進んで3月3日に女の子の幸せを願って人形を飾る風習が広まっていきます。

雛市も盛んになり、市民の間にも浸透していきました。

雛祭りは明治・大正・昭和と経済成長に伴って盛んになってゆきます。
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